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下の年表は《青木隆紘(2008)「《モンゴル音楽》の20世紀小史―モンゴル国音楽文化研究に向けて」(『日本とモンゴル 116』、日本モンゴル協会、pp.77-99)》の年表を大幅に改訂したものです。 モンゴル音楽関連簡易年表 年代 出来事 BC400~93年頃 匈奴がモンゴル高原を支配。匈奴軍は鼓吹楽という軍楽隊のようなものを持っていた。またモンゴル国中央県アルタンボラグ郡からは匈奴時代の骨製口琴が出土。 2~3世紀頃 蔡琰(蔡文姬、177?-239?)が自身の運命を綴った詩『胡笳十八拍』(後世の創作説あり)で南匈奴のツォールと思われる管楽器について歌う。 554~559年 この期間に成立した『魏書』「高車伝」によると、紀元前3世紀頃からモンゴル高原に居住していたテュルク系の高車が狼の吠声のように「好んで声を引いて長く歌」っていたとの記述がある。 6世紀~11世紀 柔然、突厥、ウイグル、契丹、遼の音楽文化については断片的な情報しかない。 7世紀 ホブド県マンハン郡の突厥時代の洞窟墓より小型のサウン・ガウのような弦楽器が出土。 12世紀 チンギス・ハーンに仕えた楽士の逸話が『アルタン・トブチ(黄金史)』に出てくるとするモンゴル国の文献があるが、これは楽士ではなく弓使いの誤読である。 1271~1368年 『元史』によると、元朝(大元ウルス)においてモンゴル王家の祖先を祀る歌が祭祀で歌われたという。またこの時代にモンゴル王家が宮廷楽団を有した。モンゴル帝国時代オゴタイ・ハーンの頃から金国、宋の宮廷楽士を接収するなどして生まれ、元朝のフビライの時代には唐時代以来の宮廷楽部を受け継ぎ楽器の種類をそれまでの王朝にないほど拡大し、400~500人の伶人を抱えるまでになった。一部がリグデン・ハーンにまで受け継がれたという説もある。 1644年~20世紀 清朝時代、有力なモンゴル王侯は「年班」という制度により北京に定期的に赴き駐在し、北京の宮廷文化を持ち込んだ。モンゴル王侯貴族は楽人を有し、式典や宴の際に演奏させた。歌謡の伴奏の他に「アサル」と呼ばれる歌のない楽器のみによる器楽合奏を行っていた。チベット仏教寺院でのツァム(チャム)上演が広まる。 18世紀 高僧ロブサンノロブシャラブ(1701-1768)が、サイン・ノヨン・ハン部のガロートと、内モンゴルのオルドスの寺院に合唱の学校を設立、仏教音楽やオルティン・ドーを教授。 19世紀 東部モンゴルの王公トグトホトゥル(1797-1868)、歌踊音曲の塾設立。領内から才能ある子供を選出し教育。 1831年頃 北ゴビの第5代ノヨン・ホトクト(活仏)・ダンザンラブジャーがチベットの仏教文学の翻訳『月郭公の伝説』 を戯曲化、音楽、曲芸付の劇として上演。 19世紀末~20世紀初頭 清朝の辺境への漢人入植政策進む。外国人貿易商らがマンドリン、アコーディオンなど西洋楽器を持ち込み、一部のモンゴル人に伝わり始める。イフ・フレー(現ウランバートル)では伝統音楽の演奏家たちはアムガランバートル(漢人居住区)に多く居住し、漢人劇の伴奏などをしていた。 1911年 12月、モンゴル清朝より独立、ボグド・ハーン制モンゴル国独立宣言 1912年 クーロンに初の国民学校設立。ボグド・ハーン政府、軍楽隊の導入を決定、帝政ロシア政府からも支援を受ける。 1914年 ボグド・ハーン宮殿直属の西洋式軍楽隊が設置され、ロシア人A.S.コリツォフの指導の下、隊員は楽譜を習得しロシア人A.V.カドレツの作曲したモンゴル国歌を演奏。 1915年 5月キャフタ会議により外モンゴルは中華民国が宗主権を持つ「自治」に変更。 1917年 10月ロシア革命。 1919年 11月軍閥が外モンゴル侵入、中華民国に対し「自治返上」を決定させられる。 1920年 春、モンゴル人民党結成。10月ウンゲルン軍侵入。 1921年 3月のキャフタ解放の際、キャフタを根拠地とする革命軍の間でモンゴル初の近代歌曲とされる《キャフタの砦》が歌われるようになる。7月革命軍・ソヴィエト軍フレー解放、人民主権の立憲君主制政府成立。8月ロシア人革命家の指導下に「青年革命同盟」結成。 1922年 A.S.コリツォフに依頼し人民軍の軍楽隊員の教育始まる。 1923年 2月D.スフバートル死去。7月人民革命党第2回大会において、各部署協力して、映画、劇、舞踊、音楽を活用して人民に世界情勢、科学などについての教育を行うことを決議。地理学者、音楽学者S.A.コンドラーチェフ(1896-1970)、モンゴルで民謡調査を行う(~1924年)。 1924年 5月ボグド・ジェブツンダムバ活仏死去。第3回党大会でS.ダンザンら処刑とダムバドルジ執行部選出、「非資本主義的発展の道」による社会主義国家建設を決定。コミンテルン代表ルイスクロフ着任。11月第1回国民大会議で人民共和国宣言、憲法批准。12月スフバートル名称中央クラブ設立。 1926年 移動音楽演劇部隊活動開始。ロシア科学アカデミーの決定によりS.A.コンドラーチェフ、再度モンゴルで、今度は録音機を持込んで調査。 1927年 10月人民娯楽場(緑のドーム)建設。この建物では劇などの他、国会も開催された。 1928年 人民革命党第7回党大会にて、モンゴル人民革命党第7回党大会にてダムバドルジ執行部「右翼偏向」として失脚、代わってゲンデン執行部組織。同時に全戯曲の検閲、音楽および演劇サークル改組、その活動の政治的文化的な向上、不適切な内容の劇の全面禁止等が決議される。 1929年 革命作家グループ結成。11月ソ連より指揮者V.A.リャリンを招聘し人民軍軍楽隊を正式に組織。 1930年 叙事詩の語り手O .ロブサン、音楽と口承文芸の記録のためウランウデ文化専門学校に招聘される。 1931年 8月演劇スタジオ(演劇サークル)をプロ化し、国立中央劇場として組織(音楽家を含む)。モンゴル・ラジオ設立。9月満州事変勃発。 1932年 急激な農牧業集団化に対しラマ、牧民らの大暴動。6月新転換政策発表。12月人民軍歌舞団設立。 1933年 政治家、歌手、作曲家のM.ドガルジャブ(1893-1946)、リムベ奏者L.ツェレンドルジ(1908-1990)らモスクワの芸術オリンピアードに出場、スターリンの前で歌い、更にモンゴル人として初のレコード録音も行う。P.M.ベルリンスキー(1900-1976)著『モンゴルの音楽家ロブサン・ホールチ』モスクワで出版。 1934年 モンゴル初の民族歌劇《悲しみの三つの丘》(D.ナツァグドルジ作)上演(ただし旋律は流行歌を流用)。M.ドガルジャブ、雑誌『モンゴル民族文化の道』に「民族音楽をどう発展させるかについて」という記事執筆。モンゴル初の大規模工業施設である工業コンビナートの建設始まる。9月モンゴルラジオ放送開始。10月芸術監督局設置。12月人民軍歌舞団が軍中央劇場に名称変更。 1935年 M.ドガルジャブら楽譜『モンゴルの歌選集』を出版。満州里会議開催。最初のネグデル設立。5月人民教育省管轄下に俳優・監督・歌手・音楽家臨時学校設立。 1936年 3月ソ連モンゴル相互援助協定調印。12月ソ連でスターリン憲法制定。1936年~ スターリン大粛清。モンゴル国初の映画『モンゴルの息子』封切。 1937年 秋より「ゲンデン=デミド反革命陰謀事件」を契機に、チョイバルサンら親ソ派による大粛清が行われる。人民教育省管轄下に芸能学校設立。ズーン・フレー寺で戦前最後のツァムが執り行われる(フィルムに記録)。 1938年 1月モンゴル初の鉄道がウランバートル―ナライハ炭鉱間に開通。同月ハルハ廟事件。当時国立中央劇場長だったL.ツェレンドルジ逮捕(1940年釈放)。2月東京日本橋三越等で読売新聞社主催で行われたモンゴル展に際し、スニットとアバガの王府の楽人を招聘、レコード録音も行う(1942年日本国内で発売)。 1939年 5月/7月ハルハ河戦争(ノモンハン事件)。 1940年 第二次モンゴル憲法採択。ソ連でラテン文字化推進からキリル文字化への政策転換。ツェデンバル、党第一書記に就任。3月モンゴル人民革命党第10回大会にてチョイバルサンが音楽を含む各種芸能の国立学校を設置する計画を報告。8月サーカス学校設立。作曲家、音楽学者B.F.スミルノフ(1912-1971)、ソ連より着任、西洋音楽理論や、民族楽器奏者に西洋楽器を教えるなど音楽指導を行う(~1946年)。 1941年 3月モンゴルでもキリル文字採用を決定。M.ドガルジャブ、トヴァ人民共和国大使から帰任直後に逮捕、投獄。7月国立サーカス設立(そこでモンゴル初のジャズ・バンドが演奏)。 1942年 作曲家B.ダムディンスレン(1919-1992)、B.F.スミルノフと共作で民族オペラ《悲しみの三つの丘》を新たに作曲(初の本格創作オペラ、Ts.ダムディンスレンにより結末を変更)。内務大臣令により辺境・内務省歌舞アンサンブル設立。 1943年 F.I.クレシコがソ連より派遣され声楽指導を行う(~1946年)。 1944年 7月アメリカ副大統領ウォーレスがモンゴルを訪問。トゥバ人民共和国、ソ連へ併合。 1945年 ヤルタ協定で「モンゴルの現状維持」規定。第二次世界大戦終結。1月雑誌『アマチュア芸能者への手助け』発刊。4月閣議により国立エストラーダ設立。5月人民革命党中央委員会書記協議会にてアマチュア芸能オリンピアードを中央と全国で行うことを決定。11月映画《ツォクト・タイジ》封切(音楽担当B.F.スミルノフ)。 1946年 中国国民党、モンゴル人民共和国独立を承認。2月M.ドガルジャブ獄中で死去。7月革命25周年全国アマチュア芸能コンテスト開催。 1947年 人民革命党第11回大会において第1次国家経済文化発展5ヶ年計画を承認。国立中央劇場を音楽ドラマ劇場に改組。B.ダムディンスレン、劇《こんな一人のハーンがいた》の音楽によりチョイバルサン国家賞受賞。プラハで開催の第1回世界青年学生祭典にモンゴル国の俳優、音楽家が参加。 1948年 国立エストラーダにジャズ・バンド組織。作曲家L.ムルドルジ(1919-1996)、歌曲《パルチザン・チョイバルサン》作曲によりチョイバルサン国家賞受賞。朝鮮民主主義人民共和国と国交樹立。ドルノド県に国立音楽ドラマ劇場設立。 1949年 1月国立音楽ドラマ劇場(旧人民娯楽場、緑のドーム)火事で焼失。 1950年 国歌制定(Ts.ダムディンスレン作詞、B.ダムディンスレン/L.ムルドルジ共作)。東欧各国と国交樹立。音楽舞踊中学校を劇場音楽中学校に改組。5月人民軍模範軍楽隊がG.ビルワー中心に結成される。12月国立エストラーダ演奏部門を民族歌舞団に改組。この頃よりソ連、東欧圏、中国、北朝鮮などへ留学する音楽家が増え始める。 1951年 国立劇場(現オペラ・バレエ劇場の建物)完成(日本人抑留者も建設に携わる)。B.ダムディンスレン、L.ムルドルジ、国歌作曲によりチョイバルサン国家賞受賞。 1952年 1月チョイバルサン死去。5月ツェデンバル首相就任。 1953年 辺境・内務省歌舞アンサンブルを人民革命軍アンサンブルに統廃合。 1954年 作曲家・合唱指揮者D.ロブサンシャラフ(1926- )、ホブド県芸能旬間でホーミーを使った合唱曲《アルタイ・ハン讃詞》発表。第2次5ヵ年計画承認。 1955年 7月初等教育の完全義務化。シェークスピアの『オセロ』、モンゴル初演。 1956年 2月ソ連でフルシチョフ、スターリン批判の秘密報告。4月モンゴル人民革命党中央委員会第4回総会でチョイバルサン批判。人民革命党政治局が民族音楽の研究、刷新、振興を決議。12月バヤン・ウルギー県に音楽ドラマ劇場設立。 1957年 「知識人の迷妄」事件発生。12月20日モンゴル作曲家同盟(~現在)結成(初代委員長・作曲家S.ゴンチグソムラー(1915-1991))。モンゴル国立放送交響楽団(現国立フィルハーモニック交響楽団)設立。モンゴル初の本格的バレエ上演が行われる(作品はB.V.アサフィエフ作曲《バフチサライの泉》(1933-1934))。劇場音楽中学校を音楽舞踊中学校に改組。科学委員会が科学・高等教育委員会に改組。ソ連でフルシチョフ派勝利。 1958年 L.ツェレンドルジ名誉回復。ネグデル組合員制度制定。 1959年 9月第1回国際モンゴル学者大会開催。G.リンチェンサムボー著『モンゴル民謡の種類』出版。 1960年 科学・高等教育委員会よりB.ソドノム(1908-1979)『モンゴルの歌の歴史より』、G.バドラハ(1894-1938)『モンゴルの音楽の歴史より』出版。バヤンウルギー出身の音楽家J.ヒバトドルダ(1921-1993)にカザフ民族オーケストラ設立時の功績等により人民芸術家の称号授与。S.ゴンチグソムラーが国立ラジオに勤務し、西洋クラシック音楽の紹介番組を始める。第三次モンゴル人民共和国憲法批准、社会主義国家であると明記。農牧業集団化完成、コメコン加盟。この頃よりラジオが全国的に普及、また70年代にかけて都市化進む。 1961年 S.ゴンチグソムラー、バレエ《ガンホヤグ》の作曲によりチョイバルサン国家賞受賞。5月モンゴル科学アカデミー設立。7月民族歌舞団付属民族大オーケストラが革命40周年記念演奏会で演奏を初披露。10月ソ連でスターリン再批判。同月モンゴル人民共和国、国連加盟。 1962年 1月人民革命党中央委員会第2回総会でチョイバルサン再批判。5月科学アカデミー主催チンギス・ハーン生誕800周年記念大会開催。9月党中央委がこの記念大会に関わった政治局員D.トゥムルオチルを解任。M.ドガルジャブ名誉回復。 1963年 人民革命党が中国を公式に批判。1月第1回全国イデオロギー宣伝員会議開催。国立ドラマ劇場を建設、音楽ドラマ劇場は国立ドラマ劇場(演劇)と国立オペラ・バレエ劇場に分離改組。オペラ・バレエ劇場杮落としの演目はP.I.チャイコフスキーの歌劇《エフゲニー・オネーギン》。D.ロブサンシャラフ、歌《ヘルレン川》、讃歌《母国、揺るがぬ地》作曲により国家賞受賞。B.スミルノフ著『モンゴルの音楽文化』モスクワで出版。 1964年 11月25-26日、第1回モンゴル作曲家大会開催。民族歌舞団付属民族楽器工房設立。ソ連でブレジネフが第一書記就任。 1966年 馬頭琴奏者G.ジャミヤン(1919-2008)、内外の作品の演奏により国家賞受賞。作曲家・指揮者J.チョローン(1928-1996)、内外の作品を指揮したことにより国家賞受賞。10月第1回指導的文化活動家全国会議開催。12月ポーランドで研修を受けたメンバーにより国立ラジオ委員会付属国立放送電子音楽団(後の国立フィルハーモニー付属バンド「バヤン・モンゴル」)結成。ゴビ・アルタイ県で「アルタイ歌舞団」結成。 1967年 首都でテレビ放送開始。ソ連より派遣されたヴァイオリン職人のD.V.ヤローヴォイが馬頭琴の大掛かりな改良を行う。 1969年 B.ダムディンスレン、オペラ歌手Ts.プレブドルジ(1929- )、民謡歌手N.ノロブバンザド(1931-2002)に人民芸術家の称号授与。6月詩人R.チョイノム逮捕。 1970年 9月第2回国際モンゴル学者会議開催。S.A.コンドラーチェフ著『モンゴル英雄叙事詩と歌謡の音楽』モスクワで出版。 1971年 作曲家・指揮者Ts.ナムスライジャブ(1927-1987)、歌《熱き身内のわが故郷》作曲により国家賞受賞。S.ゴンチグソムラー、指揮者・作曲家J.チョローンに人民芸術家の称号授与。国境警備隊歌舞団設立。D.バトスレン、J.エネビシ(1937- )共著『歌謡よりオペラに至りし道』出版。B.F.スミルノフ著『モンゴルの民族音楽』モスクワで出版。 1972年 7月20日国立フィルハーモニー設立、ジャズバンド「バヤン・モンゴル」や国立交響楽団が所属。12月7-8日、モンゴル作曲家同盟第2回大会開催。オブス県に音楽ドラマ劇場設立。L.ムルドルジに人民芸術家の称号授与。日本・モンゴル国交樹立。 1973年 カザフ共和国で開催の第3回アジア音楽シンポジウム席上でJ.チョローンの作品が入選。 1975年 作曲家G.ツェレンドルジ(1927-1974)、舞踊音楽の作曲により国家賞受賞。 1976年 第3回国際モンゴル学者会議開催。ダルハン市立音楽ドラマ劇場設立。フブスグル県に音楽ドラマ劇場設立。 1977年 12月15-16日、モンゴル作曲家同盟第3回大会開催、同同盟ユネスコ国際作曲家会議に加盟。バヤンホンゴル県に音楽ドラマ劇場設立。ロック・バンド「ソヨル・エルデネ」結成(~現在)。オペラ歌手G.ハイタフ(1926- )に人民芸術家の称号授与。モンゴル労働組合定期大会開催。 1979年 馬頭琴奏者G.ジャミヤンに人民芸術家の称号授与。 1981年 3月モンゴル初の宇宙飛行士グルラグチャーが人工衛星に乗り、モンゴル・ソ連共同飛行を行う。7月4日国立オペラ・バレエ劇場を国立オペラ・バレエアカデミック劇場と改称。モンゴル全人民大芸術祭開催。Ts.ナムスライジャブに人民芸術家の称号授与。 1982年 1月20日セレンゲ県で民族歌舞団「セレンゲの波」設立。「金色の秋」音楽祭開催(以降毎年新作発表の場として機能)。12月第1回「全国伝統芸術祭」開催(以後5年おきに伝統芸能「発掘」の機会として行われる)。教育法改正。第4回国際モンゴル学者会議開催。 1983年 12月6日党中央委員会政府決定および閣議決定により「国家一級芸術家」の称号を設定。ウリヤスタイ市に音楽ドラマ劇場設立。ヘンティー県で民族歌舞団「ハン・ヘンティー」設立。科学アカデミーから『モンゴル口承文芸選集』シリーズ刊行開始。 1984年 5月モンゴル作曲家同盟第3回大会開催。ダランザドガド市に音楽ドラマ劇場設立。N.ノロブバンザド国家賞受賞。Yu.ツェデンバル書記長解任。馬頭琴四重奏団が初めて結成される。 1985年 「民族音楽の祭典」開催。第7回アジア音楽連合をウランバートルで開催。ソ連でゴルバチョフが書記長就任。 1986年 人民革命党第19回大会にて初めて社会主義的中央集権経済制度の欠陥を指摘、経済改革、情報公開始まる。作曲家E.チョイドグ(1926-1988)、序曲《友好》、ドキュメンタリー映画《モンゴルの美しき国》等の音楽作曲により国家賞受賞。 1989年 作曲家D.バダルチ(1928- )、歌《ヘルレンの美しき地》、《子守唄》などの作曲で国家賞受賞。作曲家N.ジャンツァンノロブ(1948- )、映画《マンドハイ賢妃》の音楽作曲により国家賞受賞。N.ジャンツァンノロブ、R.エンフバザルら編『モンゴル音楽研究』出版。楽器職人D.インドゥレー、エヴェル・ブレー、大太鼓、各種ビシグールの製作により国家賞受賞。オペラ歌手Ts.プレブドルジに労働英雄の称号授与。10月第1回馬頭琴フェスティバル開催。12月10日初の民主化要求の集会が開かれ、そこに参加したロックバンド「ホンホ(鐘)」の《鐘の音》がデモ・集会等で盛んに歌われ始める。 1990年 3月民主化を求めるデモ・集会の結果、複数政党制へ移行。モンゴル初の音楽専門大学が開学。作曲家Z.ハンガル(1948-1996)、《弦楽四重奏曲》、《ヴァイオリン協奏曲》等の作曲により国家賞受賞。第1回ダムディンスレン記念 歌劇《悲しみの三つの丘》配役コンクール開催。 1991年 文化教育専門学校を文化専科大学に改組。J.エネビシ著『音楽の伝統の革新の諸問題』出版。12月ソ連崩壊。 1992年 1月国号を「モンゴル国」とする新憲法制定、第1回総選挙で人民革命党圧勝。7月政府命令によりモンゴル国立馬頭琴交響楽団設立。モンゴル国立文化芸術大学開学。作曲家B.シャラフ(1952- )、《第2交響曲》等作曲により国家賞受賞。 1993年 作曲家Ts.ナツァグドルジ(1951- )、歌劇《雲の運命》等作曲により国家賞受賞。 1994年 国立オペラ・バレエアカデミック劇場が国立古典芸術劇場と改称。民族歌舞団を全軍歌舞アンサンブルに改組。国立文化芸術大学創設。 1995年 音楽舞踊中学校のカリキュラムを刷新し、ゴンチグソムラー記念音楽舞踊カレッジに改組。 1996年 N.ノロブバンザドに労働英雄の称号授与。作曲家Ts.チンゾリグ《夢のゴビ》他の歌謡曲やオペラ、オラトリオの作曲で国家賞受賞。第1回ゴンチグソムラー記念全国ピアノ弦楽器コンクール開催。第1回セウジド記念民族舞踊コンクール開催。第1回プレブドルジ記念声楽コンクール開催。 1998年 作曲家G.ビルワー(1916-2006)、大衆歌、映画音楽の作曲により国家賞受賞。J.バドラー(1926-1993)著『モンゴル民俗音楽』出版。 1999年 J.バドラー作詞、Ts.ナムスライジャブ作曲《熱き身内のわが故郷》が「世紀をリードした歌」に選ばれる。ガンダン寺で形式のみツァムを復元上演。第1回ツォグゾルマー記念ボギン・ドーコンクール開催。 2000年 作曲家Kh.ビレグジャルガル(1954-2008)、歌劇《お坊さまの涙》などの作曲により国家賞受賞。D.ロブサンシャラフに労働英雄の称号授与。 2002年 N.バガバンディ大統領により馬頭琴を尊重し振興する大統領令発令(各公的機関に馬頭琴を置く、など)。9月アマルバヤスガラント寺院でジャハル・ツァム復興上演。 2003年 ユネスコの「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」においてモンゴルの馬頭琴が傑作の宣言を受ける。ホブド県にて第1回モンゴルホーミー歌手フェスティバル開催。9月ダシチョイリン寺にてフレー・ツァム復興上演。 2005年 ユネスコの「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」においてモンゴルと中国のモンゴル民謡の一形式オルティン・ドーが傑作の宣言を受ける。バガバンディ大統領により民族楽器大オーケストラを復元、拡張させる大統領令発令。作曲家N.ジャンツァンノロブに人民芸術家の称号授与。 2006年 大モンゴル建国800年を記念し、各種行事開催。作曲家S.ソロンゾンボルド《天の歌声》や交響曲などの作曲により国家賞受賞。3月ホブド県にてアルタイ英雄叙事詩ホーミー祭開催。第1回ロブサンシャラフ記念青少年合唱コンクール開催。 2007年 モンゴル作曲家同盟設立50周年記念大会開催。 2008年 ユネスコの「緊急に保護する必要がある無形文化遺産」のリストに馬頭琴とオルティン・ドーが登録される。第1回ムルドルジ記念全国民族楽器コンクール開催。第1回国際馬頭琴フェスティバル開催。 2009年 ユネスコの「緊急に保護する必要がある無形文化遺産」にビー・ビエルゲー(西部の伝統舞踊)、ツォール(西部のホーミーと似た発声法の縦笛)と英雄叙事詩が登録される。作曲家B.ムンフボルド《箏協奏曲》などの作曲により国家賞受賞。 2011年 ユネスコの「緊急に保護する必要がある無形文化遺産」に横笛のリムベが登録される。第1回「騎馬民族の万馬の先駆け」オルティン・ドーコンクール開催。 2012年 11月第1回B.シャラフ記念声楽民族楽器演奏コンクール開催。 2014年 4月2008年にホブド県で出土した7世紀突厥の楽器を元に「アルタイ・ヤトガ」を復元、国立歴史博物館で展示。 モンゴル音楽史を知るデータベース
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モンゴル音楽研究事始(大学のレポート) 青木隆紘 はじめに モンゴル音楽はすっかり日本人にとって身近なものになりつつある。ユニクロのCMのBGMにフーミーが使われたし、NHK大河ドラマ《北条時宗》でも劇判音楽録音にオルティン・ドー歌手のノロブバンザドが参加し、それらは一般家庭のお茶の間に流れた。演奏旅行で日本を訪れるモンゴル人音楽家は多く、日本に在住するモンゴル人音楽家の中にはもはや馬頭琴奏者だけではなくリムベ(横笛)奏者やフーミーの歌い手もいる。日本人がモンゴル音楽を研究した最初は、1907年の鳥居龍蔵、鳥居きみ子の探検時のものである。それ以来100年たつがいまだに日本人によるモンゴル音楽の体系的な研究はほとんど試みられていないし、一般的なモンゴル音楽への理解はステレオタイプ的なモンゴルイメージを助長するもの、という範疇を出ていない。芝山によれば、このモンゴルに対するオリエンタリズムは、モンゴル人の生活世界の実態を無視した日本の自民族中心主義的な自己同一化を伴い、戦前から戦後に生き残って現在に至るという(芝山2008)。モンゴル音楽に対する言説も、音楽的類似を生活世界の文脈を無視して日本との同祖論に結び付ける傾向がある。その理由を考えるにあたって、この論考でモンゴル音楽の研究、紹介が戦前、戦時中の日本でどのように行われてきたか、背景にある社会の状況を含め見ていきたい。 「蒙古謡」との出会い 日本のモンゴル研究は1907年に出版された『元朝秘史』の那珂通世注訳書『成吉汗実録』から始まったとされる。この翻訳は日本が自らを中心とする帝国をアジアに打ち立てるにあたって、「西洋史」に対抗しうる「東洋史」成立の必要性が唱えられた中から生まれたといってよい(芝山2008)。日露戦争後、満洲の権益確保が最重要課題となったこの時期産声をあげたモンゴル研究は、国策との結び付きなしには語り得ない。このような時期、1907年に鳥居龍蔵、鳥居きみ子夫妻はモンゴル踏査を敢行する。まず1906年3月にハラチン王府のグンセンノロブが設立した女子学堂の教師としてきみ子が招かれて行き、1ヵ月後同じく男子学堂の教師として龍蔵もモンゴル入りしている。この後内モンゴル東部から当時の外蒙古東端までを踏破して考古学、民俗学的調査を行っている。龍蔵の主たる関心は遼時代の遺跡調査だったようだが、きみ子はモンゴル人の生活、習慣に関わる様々な記録を残しており、その中には音楽についても詳しく述べられている。幾つかの民謡の採譜と音階、また民謡の歌詞の訳と特徴、使われている楽器についてなどが主である。実はきみ子は東京音楽学校(現東京藝術大学)で学んだ経歴を持ち、王府でオルガンを弾きながら音楽教育も行ったという(服部1975 p.199)。音楽は非常に興味を引くテーマだったに違いない。服部龍太郎によればきみ子の採譜した曲は漢人音楽の影響を強く受けたものであった可能性があるというが、これは単純化した採譜であるため歌い方のニュアンスまで知ることができず、はっきりとしたことはわからない。この他、20世紀中盤にはほとんど見られなくなった楽器や、ハルハでは社会主義化の際に淘汰されてしまった王府の楽人たちの様子が描かれているのが興味深い。また「ムリントロガイヌホーレ」の名で馬頭琴を記録しているが、この「馬頭琴」という訳語を最初に考案したのは漢人ではなく鳥居きみ子であった可能性がある。これらは『土俗学上より観たる蒙古』に掲載されているが、これ以前にも音楽誌上で講演録や記事のかたちで発表されていた。この時代、海外、特に日本の勢力圏で行われた学術調査には、学問的な理由だけではなく、植民地統治に必要な現地人の社会構造を把握するという目的があった。しかし、鳥居竜蔵ときみ子の場合はこれに完全には当てはまらない。きみ子の植民地政策に対する意識は記述からは読み取れないし、龍蔵は保守的な政治思想の持ち主であったものの、学問を植民地政策実施に結び付けるような活動をすることよりも、日本の軍事行動拡大を最大限利用してでも自己の学問的営みを達成させるという、楽観的な一種の学問至上主義が彼の行動原理であったという(山路2006)。ただ時代の背景は日本の拡大主義と学問が結び付いていく傾向にあった。鳥居きみ子はモンゴルの古い部類の民謡(オルティン・ドーのこと)の緩慢な節回しと日本の追分のそれが似ていることを「発見」する(鳥居1927 p.1138)。きみ子はこの「事実」を指摘するだけに終わったが、これは後に戦後にも古代において日本とモンゴルが何らかのつながりを持っていた可能性を示す証拠として語られることになる。 東京に鳴り響くモンゴルの調べ 1930年代からモンゴル音楽について書かれたものが増え、一般にも認知される機会ももたれるようになる。1938年2月、読売新聞社主催のもと東京日本橋三越にてモンゴルおよび中国の展覧会が催されたが、この展覧会と連動して会期中の1ヶ月間、三越のホールでモンゴル人音楽家が一日二回の公演を行った(瀧1938b p.71)。彼らは総勢10名でスニットおよびアバガの王府の宮廷楽人だった。来日の経緯に関して詳しくは分からないが、日本でのモンゴル文化の周知を望む蒙彊自治政府の意図が働いていたようだ。等々力2005によれば三越以外でも各地でコンサートを行い、鳥居きみ子の著書とあいまって日本でもモンゴル音楽が認知されるようになってきたという。そういえば1940年に発表された東海林太郎ら作詞の歌謡曲《蒙古の町》には「馬頭琴」の言葉が登場する。この演奏会の記事を書いた瀧遼一は中国古典音楽の研究者だったのだが『蒙古学』誌上に「蒙古の音楽について」と題する記事を書いている。これが日本におけるモンゴル音楽の初めてのまとまった論考で、彼はこの他モンゴル関係では『史学雑誌』誌上に匈奴の軍楽について「匈奴の音楽としての鼓吹楽」などを書いている(当時元代の音楽と楽器についても発表する、としているが見つからない。結局発表しなかったのだろうか)。瀧はモンゴル音楽の古い時代資料をモンゴル人がほとんど残してこなかったことから、現在ある音楽文化の分析から歴史を研究する必要を説いた。瀧もそうだがモンゴル音楽の発展の重要な要素として漢人音楽文化以外に元朝時代に受けた西アジア、イスラム圏の音楽の要素が強調されていた、という点がこの時期の研究の特徴である。中国音楽研究者だった瀧がモンゴル音楽研究も行った動機は定かでないが、このような研究がどんな場で行われたのかは注目に値する。瀧の「蒙古の音楽について」、少しなりともモンゴル音楽に関係するものでいうと、ウラディミールツォフのモンゴル口承文芸論の翻訳やポッペの記事の翻訳、印南高一のツァムの記事、ブリヤート音楽についてソ連で出たものの翻訳など多くの記事が善隣協会の出版物に発表された。善隣協会は1934年設立の財団法人で、陸軍大将林銑十郎の肝煎りで財閥からの財政支援のもと生まれ、敗戦による解消まで「蒙彊」で活動した典型的な国策機関であった(原山2005 p.371)。善隣協会は『善隣協会調査月報』、『蒙古』、『蒙古学』などの定期刊行物、そのほかいくつかのモンゴル関係の著作物を出版していた。もちろん音楽研究の面からもアジア音楽研究の要請があったわけだが、出版界が「プロパガンダもの」の出版ラッシュであったこの時代(吉見2002 p.94)、モンゴル文化に関する研究の背後にも国策の影響が見え隠れするのである。 研究以外で、株式会社満洲弘報協会から『蒙古の民謡と伝説』という小冊子も発売されている。これはそれ以前に鳥居きみ子らが書いたものに基づいて、民謡の訳詞、楽譜や民話が載せられ、それに満洲で取材した写真や編者の解説などをつけたもので、観光案内書の一種のようなものであった。満州国の正当性、そこでの日本の貢献度をアピールするために「観光楽土」として旅行宣伝が盛んになされた時代の産物である。 大東亜の音楽文化 大東亜共栄圏はアジアを欧米列強の植民地から解放するという目標を掲げながらも、実態を見ると、独立は口約束に終わったか日本に都合のよい人事の政権の樹立しかなされず、日本のための収奪的経済ブロックとなっただけで、旧宗主国のより少しはましという程度のものだった。このような中で、政治と芸術という問題をみてみるならば、前衛的な技法が抑圧されていった絵画や、言論統制、思想統制の標的となった文学がある一方で、音楽創作に関しては政治の側は「ほとんどの音楽様式を排除せず、「帝国」を気どった無限抱擁以上のヴィジョンもなく、ただ雰囲気としては、日本的なもの・東洋的なもの・アジア的なものへ向かおうとしているうちに敗戦を迎え」たという(日本戦後音楽史研究会2007 p.59)。一方でプロレタリア音楽団体は弾圧の対象となり、ジャズ音楽が禁止され、占領地域懐柔のための「音楽工作」が行われた。中でも民族音楽研究は、音楽工作と分かちがたく結びついていたといってよい。 アジアへの興味の高まりの中で最も活躍した音楽学者の一人に田辺尚雄がいる。彼は東洋音楽学学会の設立者の一人である。彼の編纂したSPレコード『東亜の音楽』およびその解説をもとに彼が執筆した著書『大東亜の音楽』(文部省教学局の叢書の一冊として刊行)、東洋音楽学会編のSPレコード『大東亜音楽集成』にはモンゴル音楽が取り上げられている。これ著書『大東亜の音楽』などでは田辺独自の考察というものはほとんど見られず、上述の瀧の論考を踏襲した内容だっただが、モンゴル人民共和国における社会主義政権下で伝統音楽が欧風化と衰退していくことを推測・批判しつつ、内モンゴル音楽文化の日本の指導下での繁栄を主張している。そしてモンゴル音楽が大東亜文化建設の中で重要な役割を演じるよう期待している(田辺2003 pp.116-117)。田辺は音楽科学を打ち立てることで、日本の音楽学研究に大きな足跡を残した。しかし彼は戦時中の研究において、アジアの諸民族の音楽が太古において起源を一にすると主張しアジア内の紐帯を強調しつつ、また西洋の音楽を技術だけの音楽に堕したものとし、東洋の音楽を精神的豊かさを保った西洋音楽に優越するものだとした。一方でアジアの様々な音楽を吸収、日本固有の音楽と融合することで発展した雅楽を擁する日本音楽を、「一面に於ては東亜音楽の集大成であり、一面に於ては世界音楽の集成」(田辺1997)と位置づけた。田辺の「日本音楽の源泉をアジアに結びつけながらも、同時代のアジアと同等になろうとせず、アジアの代弁者たろうとした態度」は「屈折したオリエンタリズム」と指摘できるという(鈴木2005 p.47)。田辺のこの態度はしかし一定の支持を得ていた。コロムビアのレコード『東亜の音楽』は彼に共感した大政翼賛会、軍部の協力なしには刊行できなかった。 この時代アジア進出の時流に乗っかったかたちで作曲家たちが「アジア」を主題とした作品を数多く書いたが、この中にはモンゴルを主題とするものが含まれている。内田2008によれば、モンゴルをテーマにした歌謡曲が1933年ごろより増え始めるという。これは歌詞に現れる異国的なモチーフを除けば、歌詞全体の構造も旋律も日本的な叙情歌、あるいは旅情歌の系譜に属するもので、所謂「大陸メロディ」(古茂田ほか1995)と呼ばれる歌謡曲の一部である。これらの歌により「ゴビの砂漠」、「隊商」、「ラマ塔」などのモンゴルを想像させる、今聴くと《月の砂漠》的なオリエンタリズムに満ちたモチーフがレコード、ラジオなどで多くの人に聴かれた。その流れは所謂「クラシック音楽」の範疇にも及び深井史郎の《ビルマ祝典曲》や伊福部昭の《フィリッピン国民に贈る管弦楽序曲》のように、日本の支援の下の「独立」の祝賀行事のため内閣情報局が委嘱した作品から、西洋に比肩しうる東洋音楽をつくるという問題意識と、日本のアジア進出の時流への迎合が結び付いた早坂文雄の《讃頌祝典之樂》や台湾出身の江文也による《故都素描》のような作品まで様々ではあったが、モンゴルに関係する作品もいくつかある。1940年の紀元2600年奉祝行事は音楽界では、西洋の超克としての民族主義的な新しい音楽作品を広く発表する格好の機会と捉えられ、アジア・日本を主題とする力作が数多く生まれたが、その中には山田耕筰の音詩《神風》という蒙古襲来を描いた管弦楽作品をもあった。自らの意思で民族主義的な作品を模索していた多くの作曲家たちと、漫然とアジア主義を目指す国策が合致したのだった。特に新京音楽院は1944年から「闘ふ満洲」という統一テーマのもと満洲の国民主義的音楽作品の創作を作曲家たち、特に内地の作曲家に依頼した。満洲の首都新京の楽団を統制し、満州国の国策を音楽面から実現させる組織として設立し、途中から協和会も一枚かんでいて理事長は甘粕正彦だった。これら委嘱作品はただ作品を依頼しただけではなく、作曲家を実際に満洲に招いて視察旅行をさせた上で作品を書いてもらおうというものだった。諸作品のうち、モンゴルをテーマにしたものは大中寅二《成吉思汗廟に捧げる曲》、《蒙古青少年に贈る小組曲》、大木正夫《蒙古》、早坂文雄《民族絵巻(第2楽章が“蒙古の草原”、他に“娘々廟会”、“ラオスの子守歌”といった楽章をもつ「大東亜共栄圏」の音によるパノラマを意図した作品)》がある。さらに満州国がらみでは、日本における軽音楽の第一人者紙恭輔が自ら音楽を担当した満洲映画協会の文化映画《逞しき草原》の音楽を交響詩に仕立て直した《ホロンバイル》がある。また大連に住んでいた経験を持つ作曲家呉泰次郎は自らの交響曲第6番《亜細亜》の第3楽章を“蒙古の成吉思汗”とした。 そもそも満州国では、「闘ふ満洲」前段階として満州国各地の諸民族の音楽の蒐集を行っていた。ようするに「闘ふ満洲」の事業は日本本土でNHKが日本各地の民謡を蒐集し、そのアーカイブを作る一方で、作曲家に蒐集した民謡を素材とした日本国民のための管弦楽曲「国民詩曲」を作らせたことの満州国版であったわけだ。満州国の民謡蒐集事業には「今の金にして数億という予算」(岩野1999 p.274)がついたそうで、モンゴル系諸族のものも集められた。その成果として、新京で建国10周年を記念して行われた「建國十周年慶祝藝文祭」上で15の民族の芸能が披露された。これは「大東亜音楽確立のための重大な役割を持つ」(村松1943 p.42)とされ、調査の成果も採譜、レコード化の上、解説をつけて世界各国の音楽団体や放送局に寄贈する計画があったが、戦争の激化により中断、ソ連軍侵攻の際、レコードの原盤は放送局の庭に穴を掘って埋められてそれっきりだという(岩野1999 p.275)。 そのレコードを聴いた黒田清がモンゴルの民謡と日本の追分の類似性について、『音楽之友』誌上の「南方共栄圏の音楽工作」と題した座談会で、「大東亜共栄圏」内の音楽の普遍性を探るべき、という文脈の中で語っている(石井ほか1942)。田辺も上記の書の中で当然このことに触れている。このような音楽の類似性をアジア内の文化的結びつきにひきつけて語ることは、この時代大きな意味を持つようになっていた。ジャワ島にエス・リリンという民謡がある。この民謡は旋律の骨格だけで見れば日本民謡とそっくりである。もちろん歌い方や音の装飾がまったく違うので、田辺尚雄らは日本民謡とジャワ民謡の関係を否定した。しかしこの「事実」は雑誌などで一部の話題になり、しばしば日本・ジャワの古代の人種的結びつきにまで言及され、日本のインドネシアに対する影響力行使を正当化する言説のひとつとなったという(片山2005)。音楽の類似から同祖論、そして侵略の正当化の言説、という流れが起こりうる時代であった。 おわりに 戦後しばらくはモンゴルへの興味そのものへの低下から、モンゴル研究に戦前、戦時中のような隆盛は見られなくなった。モンゴル音楽について単発的にいくつかの著作物が出ている。東北民謡の研究者であり復興者であった武田忠一郎は内モンゴルからの留学生に民謡を歌ってもらい、それを採譜した。彼もまたオルティン・ドーと追分の類似性の「発見」に驚いている。服部龍太郎は『モンゴルの民謡』を著す際ハスルントらの蒐集、研究の成果に多くをよっていたが、彼自身父親が満洲の日本人貿易商で、幼少時代からその地で過ごしていた。戦後の民族音楽学のスターとなった小泉文夫もシルクロード音楽舞踊考察団団長としてモンゴル音楽の調査も行い、またノロブバンザドらモンゴル人音楽家の招聘も行い、モンゴル音楽を(もちろんそれだけではなくあらゆる民族音楽を、だが)広く日本に紹介した。しかし彼もまたオルティン・ドーと追分の類似性に着目し、それに江上波夫の「騎馬民族国家」論によって根拠を与えようとした。彼は日本民謡のうち明確な拍節を持たず母音を引き伸ばす歌唱法の追分節のような民謡を「追分様式」と名づけ(小泉1994)、この類似が中央アジアにもあるとして、馬文化の伝来と馬子唄であるこの民謡形式の起源を結び付けようとしていた。彼の研究はそのあまりの多忙さ(これは小泉が研究だけでなく諸民族の音楽を広く一般に紹介する役割をも担ったからだが)と早世さゆえ未完成で講演録などのかたちでしか残されていないものも多い。彼のモンゴル音楽に関する論考もその類であるので一般の日本人へのアピール度を上げるためかもれないが、小泉の論考もまた日本音楽のアイデンティティの探求、つまり日本音楽の起源を説明するためにアジアの音楽を研究するという枠内を出なかった。 繰り返されたオルティン・ドーと追分の類似性は結局ほとんどの研究においてモンゴル音楽は、特に民謡の旋律に関しては、日本音楽との音楽的類似性がその生活文化の文脈から理解するよりも重要視されて語られ続けた。そしてそれはしばしばモンゴル人と日本人の同祖論的言説に結び付けられた。その系譜は戦前のモンゴル音楽の研究から戦後まで長く続いたのである。 参考文献 G.Arkhincheev/小川信吉訳(1941)「ブリヤート蒙古演劇音楽学校」(『蒙古111』、善隣協会、pp.99-104) 石井文雄/笠間杲雄/枡源次郎/黒田清/箕輪三郎/堀内敬三(1942)「南方共栄圏の音楽工作 <座談会>」(『音楽之友 第2巻第4号』、pp.20-37) ルイク・イシドール/高橋勝之訳(1941)「ブリヤート蒙古の民族楽器」(『蒙古114』、善隣協会、pp.59-62) 印南高一(1940)「喇嘛舞踊見聞記」(『蒙古97』、善隣協会、pp.101-114) 岩野裕一(1999)『王道楽土の交響楽 満洲―知られざる音楽史』、音楽之友社 内田孝(2008)「戦前・戦中期におけるモンゴルを題材とした流行歌謡―日本人のモンゴル・イメージを探る―」(2008年度秋季日本モンゴル文学会研究発表会口頭発表) ベ・ウラヂミルツオフ著/宮崎眞道訳(1938)「蒙古・オイラート英雄詩史・序(1)-(3)」(『善隣協会調査月報69-71』、善隣協会) 岡田真紀(1995)『世界を聴いた男 小泉文夫と民族音楽』、平凡社 岸辺成雄(1943)「回教音楽東漸史考-元朝の回教楽器」(『回教圏7 4』、回教圏研究所、pp.31-46) 小泉文夫(1994)『日本の音 世界のなかの日本音楽』、平凡社 小島美子(1985)「モンゴル民謡は江差追分のルーツか?」(文化庁文化財保護部 監修『月刊文化財』、第一法規出版、pp.29-32) 古茂田信男他編著(1995)『新版 日本流行歌史 中=1938~1959』、社会思想社 子安宣邦(2003)『「アジア」はどう語られてきたか―近代日本のオリエンタリズム』、藤原書店 芝山豊(2008)「《蒼き狼》とオリエンタリズム」(清泉女学院大学人間学部研究紀要編集委員会『清泉女学院大学人間学部研究紀要(5)』、pp.29-41) 鈴木聖子(2005)「近代における雅楽概念の形成過程」(文化資源学会『文化資源学 第4号』、pp.41-49) 瀧遼一(1937)「匈奴の音楽としての鼓吹楽」(史学会『史学雑誌48 7』、pp.136-137) 瀧遼一(1938a)「蒙古の音楽について」(『蒙古学3』、善隣協会、pp.17-54) 瀧遼一(1938b)「蒙古音楽と其楽器」(『東洋音楽研究1 2』、東洋音楽学会、pp.71-75) 武田忠一郎(1951)「蒙古の唄--曲譜と解説」(『東洋音楽研究』東洋音楽学会、pp.147-154) 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片山杜秀解説(2005)『深井史郎・パロディ的な四楽章・ジャワの唄声他(日本作曲家選輯)』、Naxos/アイヴィ
https://w.atwiki.jp/mongolhugjim/pages/34.html
20世紀外モンゴル地域における音楽史研究 私の大学での専攻はモンゴル語とその文化である。モンゴル人の居住する地域は、モンゴル国に加えて中国の内蒙古自治区、ロシア連邦内のブリヤート共和国、カルムイク共和国などがあるが、それぞれ異なった歴史的経緯を持つため、ここではモンゴル人の所有する国家であるモンゴル国に限定して話を進める。さてこの現在のモンゴル国には、もちろん素晴らしい音楽の伝統がある一方、主に社会主義革命以降、ソ連・ロシアを通じての近代化と共に西洋的な音楽を受容してきた。現在でもポップミュージックは盛んであるし、オペラも日常的に興行を続けている。西洋音楽は十分に浸透していて、その状況は非常に興味深い。一方でモンゴルは特異な歴史を持つ。この歴史と先の音楽状況を重ね合わせると、モンゴルの音楽状況においての興味深く、また難しい問題が浮かび上がる。そのうち私は2つの点に注目したい。 一つはモンゴルにおける近代化と西洋音楽受容の問題である。そしてもう一つは全体主義のもとでの音楽の状況である。 以前私はモンゴル音楽のこの二つの問題において、日本における研究、資料の収集不足のため、ソ連や戦前の日本のこの種の問題との比較でそれを補おうとしていた。しかし国内での資料探索を進め、更に今年5月、2週間モンゴルに滞在する機会を得、そこでモンゴル人の幾人かの音楽家、音楽研究者と会って話を聞き、また当地で出版された音楽に関する書籍を入手することができた。これにより、ある程度、モンゴルの音楽状況を通時的にまとめることができよう。 同時に上記二つの問題についても考察を進められる、と考えている。最終的に私の目標は上記二つの問題を軸にし、近現代モンゴルの音楽状況を、現在日本に流布しているような、おぼろげな、草原と遊牧の伝統的世界観に偏ったイメージよらず、より現実に即した形で紹介できれば、と考えている。 ところでモンゴル国のその特異な歴史について少し述べてみよう。1691年以降清朝の支配下に入った外モンゴル地域は1911年にボグド・ジェブツンダンバ・ホトクト(ボグド・ゲゲーン)というチベット人活仏を国家元首に、ボグド・ハーン制モンゴルとして独立する。これは、清朝がその末期に、辺境防備とロシアとの国境策定を有利に進める必要から辺境地域に漢人を積極的に入植する政策を実施したのに対し、モンゴル人側は遊牧社会存続への危機感、漢人商人、入植農民のやり方への反感からナショナリズムが高揚し、辛亥革命の混乱に乗じて独立に至ったものである。この時モンゴルはそれまでの主に代わって、帝政ロシアに援助を求めた。結果として1915年の露蒙中で行われたキャフタ条約で、露中間の思惑により中国の宗主権下の自治に格下げされ、モンゴル軍が解放した内モンゴル諸地域を放棄させられるということはあったにせよ、実質的な主権は保った。1919年ロシア革命でのロシア弱体化に乗じて侵入した中国軍による「外蒙自治取り消し」、ロシア白軍残党の侵入など苦難の後、それに対し1921年、ソ連、コミンテルンの支援を取り付けたモンゴル人民党による義勇軍が首都他外モンゴル各地を解放、近代化に端緒をつけたとはいえ伝統的な遊牧社会を保ち、封建制であったボグド・ハーン制モンゴルに代わって人民政府を発足させる。そしてモンゴル人民党は人民革命党となり1924年第3回党大会で「非資本主義的発展の道」による社会主義国家建設を決定し、同年第1回国民大会議で「モンゴル人民共和国」を宣言する。その後は国家の近代化が進む一方、ソ連の影響力の増大、急激な牧畜集団化に対する暴動や粛清、親ソ派でモンゴルのミニ・スターリンと言われたKh.チョイバルサンによる独裁、引き続きYu.ツェデンバルを中心とする人民革命党の長い一党独裁時代を経て1990年代に複数正当性に移行、民主化されて現在に至る。 つづいて、この歴史状況と重なり合う部分にある、音楽における事象について、現在調査している分だけ述べる。 まず近代化に関してであるが、ボグド・ハーン制国家の下で行われた西洋式近代化への第一歩、その中で音楽に関係する事象には、まず西洋式軍楽隊の設置が挙げられる。これは同政権下で1913年に首相サインノヨン=ハン・ナムナンスレンを中心とする第2次遣露使節が、現在はロシア連邦ブリヤート共和国の首都となっているウラン・ウデを訪れた際、ロシア側から軍楽隊による歓迎を受け、それに感銘を受けたことによる(R.Oyunbat /2005/ “Huree duu hugjmiin uusel, hugjil”)。サンクト・ペテルブルグに着いた一行は早速軍楽隊の楽器を買い求めるが、それに対してロシア側が援助を申し出、ロシア人の指導も入ったようだが、1914年、ボグド・ゲゲーンの宮殿脇に西洋式軍楽隊設置された(モンゴル国立文化芸術大学文化芸術研究所編纂(1999)『Mongoliin soyoliin tu ukh(モンゴル文化史)』)。この時期の音楽近代化としてはロシア人やアメリカ人貿易商がマンドリンやアコーディオンを持ち込み、広めたことも言及すべきだろう。 革命後は更に国家が積極的に先導して経済、産業など様々な分野の近代化に携わる。音楽も例外ではなかった。国家は劇場(ただし、モンゴルで「劇場」という場合、それは建物のみならず、専属の出演者や演奏家、演出関係全般の人員も含めた全体を指す)、オペラハウス、またアマチュアからプロ養成までの芸術活動の拠点であったクラブの建設というハード面での近代化を進めた。そしてソフト面では1930年代の中央劇場付属スタジオや1950年代以降の専門学校における音楽家の養成、交響楽団、民族歌舞団の設置、演奏会の機会の拡大、地方への巡業(これはしばしば党の集会などとむすびつけられたが)を行った。音楽家養成に関しては1924~28年に文部大臣を務めたエルデネ・バトハーン(1890-1937粛清?)が先駆的な役割も果たしていて(田中克彦(1973)『草原の革命家たち』)、彼についての論文はThe Mongolia Society,Inc.の冊子に掲載されているとのことだが、目下探索中である。これらのみならず、新しい合唱音楽の創造や多分に宗教儀式的な側面もあった英雄叙事詩など伝統芸能を「国民芸能」へ発展させることにも関わっているという(上村明(2000) 「国民芸能としての英雄叙事詩」)。また革命記念の作品を委嘱することもこのうちに入るであろう。この例としてはN.ツェグメデ(指揮者、作曲家1927-1987)の革命50周年委嘱作品《草原の祭り》がそうである。 ソ連の影響も見逃してはならない。モンゴル近代音楽の祖とされるM.ドガルジャブが西洋の記譜、作曲法を学んだのはロシア人からであるし、彼はまたソヴィエトでモンゴル人として初の商業用レコード録音もしている。1940~45年、B.F.スミルノフがソヴィエトから音楽技術指導に派遣されている。在任中彼はB.ダムディンスレンとの共作でモンゴル初の本格的創作オペラ《悲しみの三つの丘》を完成させ、またモンゴル音楽の研究にも貢献した(D.バトスレン(1989)「B.スミルノフの遺産、研究の功績に関して」)。彼の派遣された時期はソヴィエトの大ロシア主義の時代、すなわちあらゆる少数民族へロシア的な影響が行使された時期なのであるが、それは後にも述べる。1943年にはF.I.クレシコがソ連より派遣され声楽指導を行っている。また多くの優秀な音楽家はチャイコフスキー名称モスクワ音楽院を中心にソ連圏へ留学をした。これは特にモンゴルのオペラの分野の発展に関して多大なる影響を及ぼしている。他にも、戦後にモンゴル政府が主催したアマチュア芸能オリンピアードなどはソ連のそれを参考にしたものであろう。1957年設立の作曲家同盟もそうかもしれない。 こうした近代化と発展の一方で、社会主義体制の下で、音楽活動に制限が加えられたり、宣伝に利用されるということはあった。 音楽のイデオロギー的利用に関しては革命初期の段階から、義勇軍には楽器をもった叙事詩の語り手が付いて行き、行く先々で皆を鼓舞する歌や、革命の意義を説く歌を即興で歌ったという(田中克彦(1973)『草原の革命家たち』)。ちなみにそのような中から生まれたのが、モンゴル近代歌曲の先駆け《Shivee hyagt(キャフタの丘)》である。民謡を元にしていながらそのように扱われたのは行進曲調のリズムもさることながら、革命歌であるという思想的な面が大きいのであろう。1930年代からすでに行われていた歌曲コンテストや地方巡業音楽会、戦後の芸能コンテストなどでも革命的、社会主義的な内容が賛美され、これも社会主義宣伝の一翼を担ったのであろう。 音楽の制限の問題に移ろう。例えばモンゴルではソヴィエト初期におけるような、音楽の表現上の自由と社会主義文化の求める音楽像との葛藤のようなものはほとんど見られない。作曲されたものは民族的な雰囲気で、民謡、民俗音楽からの直接的な影響と、西洋の伝統的な作曲技法が平明に組み合わされたものが多い。題材は、自然が多く、他に生活、愛などである。ソ連ではそのような作品は社会主義リアリズムの観点から歓迎されていた。モンゴルではショスタコーヴィチとジダーノフの攻防のようなことは起こらなかったようだ。しかし圧迫はあった。それをいくつか見ていこう。 1923年の党大会決定では、音楽他の芸術文化は「世界の国々をよく知るため」に必要である、と非常に外へ開かれた内容である。しかし1928年には全戯曲を検閲し、「音楽および演劇サークルを再構成しその活動を政治的文化的により向上させること」が決定されている。狭量な社会主義政策にとらわれない開明的政策を打ち出していたダムバドルジ執行部解任前後の決定である。またソ連から正式の音楽の技術指導が入ったのは、スターリン体制の完成期でありソヴィエト政府がロシア的な文化をソヴィエトの各少数民族にまで拡大させた時期である。この時期はモンゴルでも公用文字のキリル文字化がモンゴル政府を飛び越して、ソ連の意向により決定された(荒井幸康(2006)『言語の統合と分離』)時期でもあった。このような出来事の中で最も衝撃的なのは後に人民芸術家として顕彰されるリンベ笛(モンゴルの伝統的横笛)演奏家L.ツェレンドルジと、歌手で作曲もし、官僚だったM.ドガルジャブの逮捕であろう。これは独裁者チョイバルサンの粛清の嵐吹き荒れる頃の出来事であった。L.ツェレンドルジは1938年、中央劇場長の任に就いていた時、罪状は今のところ不明だが、2年間投獄された。M.ドガルジャブは1941年在トヴァ人民共和国大使であったところを急に呼び戻され、そのまま逮捕、1946年に獄中で痴呆性精神病により死亡している(田中克彦(1973)『草原の革命家たち』)。トヴァ人民共和国は元々モンゴルが領有権を主張し、自らもモンゴルへの帰属を望みながら、1921年に7万たらずの国家としていきなりの独立、1944年には「トヴァ人民の切望により」ロシア共和国の一自治州となったいわくつきの土地である。トヴァについて知りすぎた、或いは何か正論を発してしまったがためにの逮捕であり、その死も薬によるものである可能性も否定できない。なんにしろドガルジャブは中央劇場の専属歌手も務めたこともあり、今でも知る人が多い。若くして革命に身を投じ、モンゴル初の楽譜集出版や、西洋の技法を取り入れた革命歌曲の作曲、雑誌論文で音楽家の組織の必要性を説く(Sh.Natsagdorj編纂(1981/1986)『モンゴル人民共和国文化史(BNMAU-iin soyoliin tu ukh)』)など、まさに八面六臂の活躍をした人気音楽家を、政府は人民から奪ってしまったのである。 最後に、社会主義時代の音楽の制限に関して、合唱、歌や各種付随音楽の分野を中心に活躍する、労働英雄にまでなった作曲家D.ロブサンシャラフ氏(1926-)にインタビューする機会があったのでこれを紹介したい。氏によると、作曲に関する制限はなかったが、歌の歌詞に関する制限は党から出されていたとのことである。封建時代のもの、チンギス・ハーンを称えるもの、生活の苦しみを歌ったものなどは制限され、社会主義の中庸な生活ぶりをうたったものが歓迎されたのだという。これをわざと破ろうとするような反体制的音楽家はいなかったし、もし、密かに旋律や構造に政府批判を込めようとしたところで、党指導部の人間は音楽のことはよく分からず、気づかなかっただろうとのことだった。また海外の音楽はほぼ全てがソ連経由で入ってくるために、ソ連で禁止になったものは自動的に入ってこなかったという。現代的な表現技法についてはそれほど興味はなく、常に聴衆に聴いてもらうことを意識しているとのことだった。そして社会主義時代の社会や音楽全般の発展そのものは非常に肯定的に捉えておられた。この肯定的な意見は他の音楽家や音楽研究家からも聞いた。 こうした時代を乗り越え、今モンゴルの音楽界は民主化後もそれまでに発達した分野に加えヒップホップの隆盛もあり、厳しい経済状況の中、奮闘している。こんな今でもロブサンシャラフ氏のように、特に社会主義時代に嫌悪感を表すことがない音楽家が他にもいるのは、ロシアのように帝政末期からソ連時代初期にかけて、芸術の爆発的な発展をみたのとは違い、O.ラティモアの指摘するように「『社会主義リアリズム』は模倣されはしたが、モンゴルの文芸復興、創造性と知的活力の途方もない爆発に従属させられたように見える。モンゴル人にとっての真の問題は往々にして、あることをブルジョワ的なやり方ですべきか社会主義的なやり方ですべきかではなく、それが一体モンゴル人の手でやれるか否かであった」のであり、モンゴル人にしてみれば、社会的に硬直はしていても、希望に満ち、近代の芸術を貪欲に取り込む時期だったのかもしれない。また自然を歌った、平明な音楽にしてみても、それはすぐ数十年前には伝統的な自然への賛歌や脈々と受け継がれている民謡の中で生活していた人々が急激な近代化を経験し、しかし生活のかなりの部分が農牧業で、首都の周りはすぐ草原であることを考えれば、聴衆にとっても作曲家にとってもそのような創作は当然かもしれないのである。 終わりに 今後の方針と目標 私は近現代モンゴルにおける文化、歴史と音楽の関わりを深く理解したい。具体的には、上記の報告の中でも、党政府と音楽の関わり、つまり党政府がモンゴル音楽の発展にどのように寄与し、どのような制限を加えたか、を中心にもっと深く研究をしたいのである。更に細分化するなら1:国家が音楽に対してどのような思想を持っていたか(社会主義リアリズム、ソ連からの影響)、2:その思想をどのような形で実行したか(ソ連の文化面での指導、モンゴルの音楽政策、音楽家養成、音楽家の統制組織、演奏団体の組織、巡回音楽会の活動内容など)、3:そのような状況下で音楽家たちがどのような活動をしたのか(演奏の内容、演奏レパートリー、作曲された作品、反体制音楽家やそれに近い活動をした音楽家がいなかったか、などの問題)、4:その結果どのような影響が社会にあったか(音楽と民族主義、音楽と思想、他の芸術分野との協力、どのような音楽が歓迎されたか、などの問題)を調べたい。 論文を書いた先には、最終的にモンゴルの近代音楽の歴史を総括し、それを日本語あるいは英語で発信できるようにしたい。それをできるだけ多く人たちに読んでもらい、民族オペラや歌、オーケストラ、軍楽隊、民族音楽を含む近代モンゴル音楽史の紹介を広くできるようになりたいと願っている。 参考文献 J.Badraa/2005/ "IKH DUUCHNII YARIA (Mongol ulsiin aldart gaviyaat duuchin Jigzaviin Dorjdagviin yarianii soronzon bichlegiin tsomog)", Erkhlen niitlesen Natsagiin Jantsannorov,Ulaanbaatar D.Bat-suren/J.Enebish /1971/ “Duunaas duuri hursen zam” J.エネビシ(1989)「M.ドガルジャブの生涯と作品」(N.Jantsannorov /1989/ “Mongoliin hugjmiin sudlal”) D.バトスレン(1989)「B.スミルノフの遺産、研究の功績に関して」(N.Jantsannorov /1989/ “Mongoliin hugjmiin sudlal”) Sh.Natsagdorj編纂(1981/1986)『モンゴル人民共和国文化史(BNMAU-iin soyoliin tu ukh)』モンゴル国立出版所 R.Oyunbat /2005/ “Huree duu hugjmiin uusel, hugjil” U.Zagdsuren /1967/ “MAHN-aas urlag utga zohioliin talaar gargasa togtool shiidveruud(1921-1966)” 青木信治;橋本勝編著(1992)「入門・モンゴル国」より“音楽―国際化する伝統音楽” (平原社) 荒井幸康(2006)『「言語」の統合と分離 1920-1940年代のモンゴル・ブリヤート・カルムイクの言語政策の相関関係を中心に』(三元社) M.アリウンサイハン(2001)「モンゴルにおける大粛清の真相とその背景 ソ連の対モンゴル政策の変化とチョイバルサン元帥の役割に着目して」(『一橋論叢』第126巻第2号、2001年8月号) 生駒雅則(2004)『モンゴル民族の近現代史』(ユーラシア・ブックレットNo.69)東洋書店 磯野富士子(1974)『モンゴル革命』(中央公論社) 小貫雅男(1993)『モンゴル現代史』山川出版社 神沢有三(1981)『モンゴルの教育・亀跌・異音畳語』長崎出版 上村明(2000)『喉歌フーミーとモンゴル(人民共和)国の芸能政策』国立民族学博物館 上村明(2000) 「国民芸能としての英雄叙事詩」『日本モンゴル学会紀要』No.30日本モンゴル学会 上村明(2001)「モンゴル西部の英雄叙事詩の語りと芸能政策」『口承文芸研究』24, 日本口承文芸学会 小長谷有紀(1995)『モンゴル草原にひびく音―音の概念 草原の音環境 二〇世紀の普遍性』(櫻井哲男編「二〇世紀の音(二〇世紀における諸民族文化の伝統と変容1)」ドメス出版、P159-174) 芝山豊(1987)『近代化と文学』アルド出版 田中克彦(1973)『草原の革命家たち―モンゴル独立への道』(中央公論社) Ts.バトバヤル著/芦村京、田中克彦訳(2002)『モンゴル現代史』明石書店 メンヒェン=ヘルフェン著/田中克彦訳(1996)『トゥバ紀行』(岩波書店) モンゴル科学アカデミー歴史研究所編著/二木博史他訳(1988)『モンゴル史』恒文社 モンゴル国立文化芸術大学文化芸術研究所編纂(1999)『Mongoliin soyoliin tu ukh(モンゴル文化史)』 O.ラティモア著/磯野富士子訳(1996)『モンゴル―遊牧民と人民委員』(岩波書店)
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モンゴルの音楽家たち モンゴル国の作曲家 モンゴル国の演奏家 モンゴル国の歌手 モンゴル国の指揮者 モンゴル国の音楽学者 モンゴルで活躍したロシア人音楽家 モンゴル音楽史を知るデータベース
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演奏団体、劇場 国立歌劇場(Монгол Улсын Дуурь Бүжгийн Эрдэмийн Театр) 公式HP http //opera-ballet.mn/ 1924年設立のスフバートル記念クラブの芸能サークルが1927年建設の人民娯楽場(“緑ドーム”の愛称で呼ばれた)に移ったのが前身。同じ建物内で1931年国立中央劇場(劇団)が組織され1949年同建物が家事で消失するまでそこで活動。1943年には専属のオーケストラを設立(それまでは伝統楽器で劇の伴奏をしていた)。1951年に開場した現在の国立歌劇場の建物で活動再開。1963年に演劇部が分離、国立ドラマ劇場に本拠地を移し、オペラ、バレエ中心の国立歌劇場として再スタート。名称を変えながら現在に至る。510人収容。現在の正式名称はモンゴル国立オペラ・バレエ・アカデミック劇場。総合芸術監督B.ジャミヤンダグワ(バレエマイスター)、首席指揮者N.トーライフー、常任指揮者J.ブレンベフ、エルデネバートル。 ちなみに「オペラ・バレエ・アカデミック劇場」という名称はいかにも不自然であるが、モンゴル語の"Дуурь Бүжгийн Эрдэмийн Театр"のうち、他の劇場・楽団名にも登場する"Эрдэмийн"の語はロシア語の"Академический"の翻訳語である。このロシア語の意味は「(プロフェッショナルの舞台)芸術」というほどの意味の形容詞であり、日本語には訳しづらい。中国の「ナントカ芸術団」などの名称のうちの「芸術」もおそらくこの"Академический"の翻訳からきていると推測できる。 国立民族歌舞芸術団(Монгол Улсын Үндэсний Дуу Бүжгийн Эрдэмийн Чуулга) 公式HP http //www.mongolianensemble.com/index.php 1945年に設立された国立エストラーダ・コンサート局が前身。当時は楽器6人、歌手5人、ダンサー6人、曲芸2人、朗読1人というメンバーだった。その後1950年に国立人民歌舞アンサンブルに改称して陣容を拡大、1961年には民族楽器の大オーケストラも設立された。2002年に国立民族歌舞団に改称され現在に至る。最初は総合的な大衆娯楽を見せており、歌謡曲やジャズ、人形劇などのステージも行っていて、一時はソヨル・エルデネというロック・バンドも抱えたが、後に伝統芸能的なステージに特化。1980年代には民俗音楽や民俗舞踊に基づいた新しい音楽劇の創出なども盛んに行われる。現在は伝統芸能に基づいてステージ・ショー化された短めの舞踊や音楽の組み合わせで公演を行っている。スフバートル広場南側の国立ドラマ・アカデミック劇場内に居を構える。 国立人形劇場(Монгол Улсын Хүүхэлдэйн Театр) 国立フィルハーモニー(Ц.Намсрайжавын нэрэмжит Монгол Улсын Филармони)所属団体 1972年閣議決定により国立フィルハーモニー協会を設立。交響楽団、ジャズバンドの“バヤン・モンゴル”、老舗ロックバンドの“ソヨル・エルデネ”の3つの運営からスタートした。1992年に長年音楽監督を務めていた功労者Ts.ナムスライジャブの名を冠した。正式名称は「人民芸術家・国家賞受賞Ts.ナムスライジャブ記念モンゴル国立フィルハーモニー」。 公式HP http //philharmonic.mn/ 国立フィルハーモニー交響楽団(Монгол Улсын Филармоний Симфони найрал хөгжим) 1957年、国立放送交響楽団として設立されたものがその前身。1972年に現在の名称・所属に変更。人民芸術家の指揮者・作曲家Ts.ナムスライジャブが長年音楽監督を務めた。1990年より息子のN.ブテンバヤルが芸術監督・首席指揮者。他にB.ルハグワスレン、B.バトバータルが常任指揮者。2003年にアジアオーケストラウィークの一環として来日し、ブテンバヤル、山下一史の指揮により、ワーグナーのオペラの抜粋からB.シャラフの馬頭琴との協奏曲まで幅広いプログラムを披露した。社会主義時代は80数名の陣容を誇り(1980年代)、毎月定期公演を行っていたようだが、現在は不定期にしか公演を行っていない。2008年現在の団員数は51名だが、大統領令の古典芸術発展プログラムにより82名まで再び編成拡大する計画がある。 “バヤン・モンゴル”ジャズ・オーケストラ(Баян Монгол Чуулга) 前身は1969年、ポーランドでの研修を生かし、国立放送局付属として設立された軽音楽楽団。その際国立民俗歌舞団やラジオ局で作編曲、合唱指揮をしていたT.チミッドドルジが中心となった。1972年に現在の名前になり、フィルハーモニー付属のコンサートを専ら行う団体となった。モンゴル国のポピュラー・ミュージックの牽引役となってきた。 国立馬頭琴楽団(Морин хуурын чуулга) モンゴルを代表する馬頭琴奏者G.ジャミヤンが馬頭琴によるオーケストラを提案、1992年に大統領令により設立された。ツェンディーン・バトチョローンが団長、芸術監督、指揮者を兼任する。国内でのコンサート、劇伴音楽の活動のみならず海外へのツアーも積極的に行い、何度も来日もしている。編成は標準の馬頭琴(モリン・ホール)、中音用のチェロ型馬頭琴(ドンド・ホール)、低音用の大型馬頭琴(イフ・ホール)、大小のヤタグ(琴)、ヨーチン(楊琴)、フルート、ピアノ、打楽器。楽器奏者だけでなく人民芸術家Sh.チメッドツェイェーらの歌手も抱える。 モンゴル国軍所属団体 全軍歌舞芸術団(Бүх Цэргийн Дуу, Бүжгийн Эрдэмийн Чуулга) 1932年に軍中央クラブ付属団体として「演劇音楽芸能隊」の名で設立。1934年国軍中央劇団に改組。現在は防衛省の付属団体。設立当初は伝統音楽の歌手や演奏者が所属し、催しでは革命歌や組体操が演じられた。1934年より軍楽隊指揮者V.A.リャリンが指導し、楽譜の習得を開始。1940年にソ連より派遣されたR.I.レシェントニャクの指導によりドンブラのアンサンブルを結成し、その後しばらくこのアンサンブルが劇団の中心となり、1955~56年には中国、北朝鮮、ヨーロッパへ演奏旅行も敢行。1958年には民族楽器と西洋管楽器による混成オーケストラが中心に据えられて以降80年代まではその路線で陣容を拡大していった。しかし1997年に大幅な改組が行われ、現在は舞踊団、合唱団、専属歌手、民族楽器の小アンサンブル、ビッグバンドとストリングスの「シンフォ-ジャズ・オーケストラ」からなる。 国軍参謀本部付属模範軍楽隊(Зэвсэгт Хүчний Жанжин Штабын Үлгэр Жишээ Үлээвэр Найрал Хөгжим) モンゴル国軍の中央軍楽隊(吹奏楽団)。1914年、ボグド・ハーン制モンゴル時代に設立された軍楽隊の指導者A.S.コリツォフを迎え、1922年ごろ結成された人民軍軍楽隊が前身。現在の形で正式に設立されたのは1950年で、作曲家G.ビルワーが音楽監督として中心になった。社会主義時代の正式名称はモンゴル人民軍模範軍楽隊(Монгол Ардын Армийн Үлгэр Жишээ Үлээвэр Найрал Хөгжим)。スフバートル広場での公式儀礼や国賓の来モ時、ナーダムの開会式などには必ず登場。モンゴル帝国時代の鎧を模したユニフォームが特徴。 国境警備隊歌舞団(Хилийн Цэргийн Дуу, Бүжгийн Чуулга) 国境警備庁公式HP内楽団紹介ページ http //bpo.gov.mn/suborgan/1206270001 1942年内務大臣令により辺境・内務省歌舞アンサンブルとして設立。1953年人民革命軍アンサンブルに統合。1960年代後半からの国境地帯の緊張に伴う国境警備隊の増強の一環として1971年に再度設置され、現在に至る。 警察庁所属団体 モンゴル国警察庁HP http //www.police.gov.mn 警察庁音楽隊「スルデ」(Цагдаагийн "Сүлд" чуулга) 吹奏楽団も所属している。 警察音楽隊「ソヨンボ」(Цагдаагийн "Соёмбо" чуулга) その他私営団体 ウランバートル鉄道公社歌舞団(УБТЗ Дуу бvжгийн чуулга Салбар) モンゴルを南北に縦断する鉄道に所属する。 鉄道公社HP http //www.ubtz.mn/ ツキ・ハウス(月の石アンサンブル) ウランバートル市の国立サーカスの西側にある。主に外国人観光客向けに民族歌舞を演じる小劇場。シルクロード音楽やロックの要素、工夫された照明演出とショーアップされた派手な演出が売り。 トゥメン・エフ民族歌舞団(Түмэн Эх Үндэсний Дуу Бүжгийн Чуулга) 1989年設立。ウランバートル市のナイラムダル公園内に本拠地を置く。2006年3月に独立採算に。モンゴルの伝統楽器のアンサンブル、民族舞踊、仏教舞踊「ツァム」などを演じ、海外からの観光客にも比較的よく知られる。日本にもトゥメン・エフ所属のメンバーはよく訪れる。2006年5月にはデンバー、ニューヨーク、ワシントンなどを周る大規模なアメリカツアーも行った。 (参考:インターネット版「モンゴリン・メデー」紙) 公式HP http //tumenekh.wordpress.com/ その他地方劇場など
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モンゴルの「近現代音楽」とは何か さて、このサイトに掲げてあるモンゴルの「近現代音楽」とは何か、ここで簡単に考察を試みる。要するに音楽の近代化の話である。 この音楽の近代化とは、考えられるものを挙げていくと、楽器の近代化、作曲技法の近代化、伝達の近代化、演奏・聴取機会の近代化、聴衆意識の近代化などがある。 まず楽器の近代化について。 モンゴルには伝統的に実に様々な楽器がある。民俗音楽研究家J.バドラーの著書「モンゴルの民俗音楽」には、こんなものまで本当にモンゴルの楽器だったのか、と疑問に思えるものまで非常に多数の楽器が掲載されている。それらの楽器は第一に楽器の使われる「場」によって2つに分けられる。仏教音楽と世俗の音楽である。モンゴルではチベット仏教が生活の中心であった。ここでは多種の管楽器、打楽器が用いられる。そして世俗の音楽がある。英雄叙事詩などの弾き語りを、トプショール、馬頭琴など弦楽器を伴い、また昔は、その合間にホーミー(喉歌)が加わったという。これは時の権力者を称えたり、モンゴルの人々の楽しみでもあった。ただしこれは「アルタイ賛歌」などの自然を称えるマグトー弾き語りにおいて、宗教的な側面もあるため、一概に世俗とは言えない(上村明)。また、これらに加え、楽器の近代化とは離れたところにシャーマンの太鼓などがある。 以上のような楽器のうち、近代化、改良された楽器の代表格と言えば馬頭琴である。馬頭琴はもともと胴の部分は革張りであったらしいが、1940年、国立楽器工場でロシア人のアイデアにより板張りとなりf字孔が備えられる(ムンフトゥヴシン)。また2弦の調弦もBとFに定められた。その他細々とした改良は現在でも続けられており、弦がナイロンになったりしているが、目的は演奏のしやすさと音量の増加で、その改良の前衛は内モンゴルである。仏教音楽楽器にはブレーという一種の大きなラッパがある。これも金属のキィが付けられ、速いパッセージも容易に演奏できるようにして、改良民族楽器によるオーケストラでホルンのような役割で使われている。 それまでの楽器を改良するだけでなく、西洋の楽器の導入も20世紀、盛んに行われてきた。20世紀初頭にはロシア人やアメリカ人貿易商がマンドリンやアコーディオンを持ち込んだし(オヨンバット)、1911年の独立後、西洋式軍楽隊もロシアから導入された(エネビシ)。またソ連からのの音楽指導員スミルノフはホーチルや馬頭琴などの民族楽器奏者にヴァイオリンやチェロなどを教えることで、手っ取り早く西洋楽器を広めた(オヨンバット)。 これらに加えて、民族楽器でのそれまでにないアンサンブル形態の創出やオーケストラの結成も楽器の近代化に入るだろう。 次に作曲の近代化の問題に移る。音楽の近代化において、特に人民革命時代初期には「作曲の技法」よりも内容の革新性が優先された。モンゴルで近代的な意味で作曲された作品の第一号とされているのは1921年の革命義勇軍の戦いの中で生まれた《キャフタの砦》である。これは民謡《青銅の神殿》の旋律を流用したもので、ガワル・ホールチ(生没年不詳、ホールチとは馬頭琴や二胡などの奏者のこと)の作とされている。この歌詞は、兵士たちの間で自然発生的に生まれたものだが、これは同時にモンゴル近代文学の始まりともされている。詩そのものは伝統的な韻文の形式であるものの、内容において、革命への士気を鼓舞するという点で新しいものだった。ちなみに「キャフタの砦を落とすときには、ガラスのカンテラはいらないぞ やってきた中国軍を、鉄の大砲で打ち倒そう」という歌詞であり、フランス革命における《ラ・マルセイエーズ》といえば雰囲気は伝わるだろうか。この《キャフタの砦》に代表されるように、この1920年代から30年代の時期は、形式においては伝統的、内容において「革命的」というもので、作曲ということにおいては、例えば行進曲調のリズムが導入されるということはあったが(モンゴル文化史・旧版)、ほとんど伝統音楽が踏襲されていたようだ。この傾向は、例えばこの時期の演劇が口承文芸の「掛け合い歌」を踏襲した形で発展していたことや(木村理子)、文学において30年代に入るまで、散文よりも韻文が主流だったことを見ても(岡田和行)、当時の文化全体に当てはまる傾向だったと考えられる。1934年に初演された初の民族歌劇《悲しみの三つの丘》(D.ナツァグドルジの戯曲による)も1943年にB.ダムディンスレンとB.F.スミルノフによって新たに作曲されるまでは流行歌の旋律を流用したものだった(木村理子)。 西洋の作曲技法がモンゴルの音楽家たちの間で一般的になったのはM.ドガルジャブが1923年にロシア人音楽学者コンドラーチェフから記譜法を、1930年代にA.エフレーモフから音楽理論を学び(J.エネビシ)、1940年に音楽指導員としてソ連よりB.F.スミルノフが派遣されて(D.バトスレン)以降のことだろう。またこの時期からモスクワ音楽院への留学生も出始める。モンゴル最初のプロフェッショナル作曲家のS.ゴンチグソムラー(1915-1991)もそうだし(ジャンツァンノロブ)、現在のモンゴル音楽界の重鎮たちの中にもチャイコフスキー記念モスクワ音楽院卒業生は多い。なお直接の因果関係があるかどうかは分からないが、B.F.スミルノフが派遣された1940年はソ連でもモンゴルでも大粛清による独裁強化がほぼ完成した時期であり(M.アリウンサイハン)、またソ連が「大ロシア政策」の下、諸共和国に対し文化的影響力を直接行使していった時代でもある(民族問題事典)。その一例はキリル文字の導入である。諸民族の文字政策(無文字文化の民族にも文字を制定し、教育を行った)はそれまでラテン文字を用いていたが、それは結局、以前は封建時代の名残があるとされていたキリル文字が使用されることになり、また新しい専門用語の現地語翻訳が禁じられ、ロシア語をそのまま使用することになった(民族問題事典)。ロシア語優位が決定付けられたのである。モンゴル人民共和国とて例外ではなく、ラテン文字、ウイグル式モンゴル文字、キリル文字の3つが教育現場で用いるために比較検討され、3つとも学習効果に優劣がない、という結論が出されていたにもかかわらず、1941年、「突然」キリル文字の正式採用が決まった(荒井幸康)。ソ連による音楽指導もこうした大ロシア主義の産物だったかもしれない。少なくともスミルノフが教えたのはロシア革命直後に見られたような、前衛的で自由な音楽ではなく、保守的な音楽理論であったようだ。 しかし何はともあれ、これ以降、モンゴルに西洋の作曲技法が広まり、音楽家たちは楽譜を用いて作曲し(近代化以前にも仏教音楽・ツァムのための楽譜が5種あった(D.ナランツァツラル)が)、西洋の理論とモンゴルの音感を融合させることに腐心するようになったのである。 現在のモンゴル音楽家たちの多くは一様に、ソ連から西洋音楽理論を学んだことを肯定的に見ており、これによって「モンゴル音楽は一地域の民俗音楽から世界音楽になった」と述べている。 次に伝達方法の近代化について述べる。先に書いた通り、M.ドガルジャブは1923年にロシア人音楽学者コンドラーチェフから記譜法を学んだ(J.エネビシ)。これを用いて1933年、ロシア人演奏家M.ベルリナ=ペチニコワと共にモンゴル伝統のオルティン・ドー、ボギン・ドー及び新時代の歌(自作も含む)を蒐集して楽譜に起こし、出版している(J.エネビシ)。この仕事においてドガルジャブは編集の一切を取り仕切ったようなのだが、これがモンゴルで出版された楽譜の第一号となっており(J.エネビシ)、ウランバートルの政治粛清記念館にドガルジャブの使っていた楽器と共に展示されている。これ以降、モンゴル国でも西洋式の楽譜が浸透していく。例えば1966年には歌というよりも語り物である、英雄叙事詩「ハーン・ツェツェン・ゾルハイチ」などまでも楽譜に起こされている。また有名なオルティン・ドーの歌い手ノロヴバンザド(1931-2002、国家最高功労賞受賞)らも自らの膨大なレパートリーをハンガリーの民族音楽学者・L.ヴァルギャスとの共同作業により楽譜に起こしている。 楽譜の他に、もう一つ近代的な音楽の伝達方法がモンゴルで採用された。それは学校教育現場で使われた「コダーイ・システム」による手を使って音名を表す方法である。「コダーイ・システム」とはハンガリーの作曲家コダーイ・ゾルターン(1882-1967)の確立した理論に基づく音楽教育のメソッドで、民謡、童歌を用い、体を使って子供に音楽教育を行おうというものである。日本でも一部の私立の音楽教育現場で実践されている。この中に、手の掲げた高さと形で音階を表し、それにあわせて歌う、というものがある。これは両手を使ってポリフォニーも表現できるという非常に高度なものだが、モンゴルの地方部で音楽教育に実際に使われている。私の通う大学の留学生も、特に年長の方はこれをまだ覚えていた。モンゴルでは近代化により、口承であった音楽は、楽譜や「コダーイ・システム」によっても伝えられるようになったのである。そして、このように楽譜になるということは、それだけリズムは西洋風に割り切られたものとなり、テクストも音使いも記譜されることで固定化していった、という側面も指摘できるであろう。
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楽器 歌唱法その他 蒙日音楽辞典 青木隆紘(2008)「モンゴル音楽用語小辞典」(『モンゴル研究 25』、モンゴル研究会、pp.54-74)の掲載前段階のものです。 音楽用語А-Д 音楽用語Е-Н 音楽用語О-Х 音楽用語Ц-Я オペラ・バレエあらすじ 団体、劇場 コンクールその他 戻る
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